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刀兵劫抄(第3次世界大戦) その3

刀兵劫抄(第3次世界大戦) その3
衆生の機根は、自然として仏法に逆行する。
菩提を求めずして、煩悩を求め、安穏を嫌って喧騒を喜ぶ。
布施は行わずして、強盗を試みる。
子の親を視ること、猟師が鹿を見るがごとく、六親不和にして、天下皆争う。
仏法の中に、刀兵劫の相を説く。
人間の生活は唯、己が貪欲に従うにみ。
貪欲によって、父子、数々相傷うこと、鴟鵂(しきゅう)のその母を食うがごとく、君臣、あるいは相凌ぐこと豺狼の食を争うがごとく、人間の私欲、増長して、世は十悪の世界となる。一向、悪事ばかりの中にも、特に瞋恚の妄念が増長する。父母も我が子に対して、殺害の心を生じ、子もまた父母に対して、傷害の心を生ず。
兄弟、姉妹、君臣、夫婦の間においては、相互いに誹謗し、罵詈し、打擲し、損害することが、あたかも猟師の鹿を逐うがごとしという。
いわんや他人を視れば、さらに瞋恚の心を生じ、他人の声を聞いては、またさらに瞋恚の心を生ず。
瞋恚の心の熾盛なるに任せて、相対する者を皆、互いに殺害する。
相手の手足を分断しても、その忿怒はなお止まず。相手の首がその身を離れても、忿怒はなおやまず、その屍を蹂みひじる。
国土は純ら荊棘林となり、人の手に取る物は皆、ことごとく利刀となる。
かくのごとく変ずる時を、小の三災の第三刀兵劫災という。
人類絶滅、文明総破壊の恐怖をもたらす第3次世界大戦とは、刀兵劫災の時代である。この時代の特色として、十悪業道が盛んに行わるる。中にも瞋恚の心がはなはだしい。瞋恚の心が増長すれば、暴力、戦闘、殺人、破壊の行為は、当然の必要なる社会生活上の一大事として行われる。
暴力、戦争の必要性を信仰的に、宗教的に信ずるにいたれば、暴力、戦争の結果が、いかに恐るべき悲惨、凄愴の事になるであろう事がわかっても、それにもかかわらず、戦争の必要を信ずるが故に、これを行う。
第3次世界大戦の避け難き所以は、現代の人のこの戦争、殺人の必要性を信ずる点にある。
現在、暴力、戦争、殺人、破壊の必要性を信じつつあると同様に、生命の尊重性、平和の生活の必要性を、人間の社会生活の上に、必要なる法則としてこれを信ずることである。
       ( 昭和二十五年八月)




絶対正義の崩壊 イラク戦争 「驚愕の真実」

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 刀兵劫抄(第3次世界大戦) その2

   刀兵劫抄(第3次世界大戦) その2
「冥きより冥きに迷う人心、遥かに照らせ山の端の月」
人間は現実において、暴力戦争の行わるる世界においては、完全に平和の光明を見失うたけれども、それにもかかわらず、平和の光明を求むる心は、どうしても捨てきれない。
平和を求むる心は、清水が大地から湧いて出づるがごとく、混混として昼夜を捨てない。冥きより冥きに迷う人心には、思想・希望の彼岸に高く、平和の光明を仰ぐよりほかに、詮方はない。
貪欲、瞋恚・猜疑の煩悩の重なる山の端の月の光明は、はたして今宵、文明絶滅の恐怖に戦慄する地上に、光明を照らし出すであろうか。
解答を与うるものは、人類、現在の文明においては、宗教よりほかにはない。なかんずく仏教は、この解答を与えんがために説かれたるものである。
釈迦牟尼世尊の出世の本懐とは、即ちこの解答である。
妙法蓮華経 如来寿量品 第十六に曰く
「衆生劫尽きて、大火に焼所るると見る時も、我がこの土は安穏にして、天人常に充満せり。園林諸の堂閣、種々の宝をもって荘厳し、宝樹花果多くして、衆生の遊楽する所なり。諸天天鼓を撃って、常に諸の伎楽を作し、曼荼羅花を雨らして、佛及び大衆に散ず」
一閻浮提の一切衆生は、不幸にして三千年の昔、天竺の霊鷲山において、教主釈迦牟尼世尊が警告し給いし、一閻浮提に遍満せる大火に焼かるる時が来た。その火は三界の中、天上、地界、水中ともに、大火が一時に起こって、いずれの方に向かっても、出離解脱の門はない。
これを衆生見劫尽(しゅじょうけんこうじん)の時という。
この時にあたって、唯有一門の解脱出離の門が開かれてある。この一門は如来の秘密神通之力であり、高祖日蓮大聖人、末法応現の使命である。三界火宅を出離する門を、唯有一門と限定されてある意味は、民主主義にも、共産主義にも、ソ連にも、米国にも、およそ闘争を合理化し、戦争行動を肯定するところには、出離解脱の門は、絶対にないという意味である。
所詮、この地上の暴力に対するに、暴力をもってしては、冥きより冥きに迷う人心である。
暴力とは正反対は柔和である。原子爆弾とは正反対な諸天撃天鼓の妙音である。略奪でなくして、布施であり、闘争でなくして、忍辱であり、憤激でなくして、柔和である。殺人でなくして、礼拝である。
仏法の六波羅蜜、四無量心(慈・悲・喜・捨)は過去の菩薩行ではない。三界火宅出離の門として、ふたたび地上に開かれねばならぬ。
        ( 昭和二十五年八月)





刀兵劫抄(第3次世界大戦) その1

  刀兵劫抄(第3次世界大戦) その1
南無妙法蓮華経 戦争の発端は、双方、勢力の均衡状態とか、一方的勢力の優位とかをもって、計画的に防止されるものではない。
先般の日・米英戦争にしても、勢力の不均衡な、しかも劣勢な日本から挑戦したというではないか。
日本の絶対中立論が、戦争防止の手段として、迷信であるというならば、民主主義優勢論も、また戦争防止の手段として迷信であることになろう。
人類の社会生活の平和は、人類の創世記、天地の開闢以来耽った夢であった。
暴力闘争の悪魔の呪詛に呼び覚まされて、ここに現実の社会生活は闘争の歴史であったといわれるまでに、浅ましき悲劇を演じきたった。
闘争哲学を平和哲学に置き換え、闘争手段を礼拝手段に置き換え、唯物論を唯心論に置き換えざる限りは、考え直す手段も、方法も、何処にも存在しない。
闘争を否定して、平和に転向せしめんがためには、利害損得の打算、現実的な世界情勢を跳躍して、絶対平和の世界は、いかにして建立されるべきかを指導せる、根本原理を探さねばならない。
絶対平和の社会生活を、天国といい、浄土という名目をもって、人類に啓示せしものが、すなわち宗教ではないか。

「然らば即ち三界は皆仏国なり、十方は悉く宝土なり」と変ずべきではないか。人類絶滅の大戦争も、人類安穩の社会平和も、闘争の信仰を、平和の信仰に考え直しさえすれば「当知是処、即是道場」である。
平和を闘争に考え直すことも、思想体系の指南であり、闘争を平和に考え直すことも、また思想体系の指南による。考え直すという以上、それは精神的問題であって、物質的問題ではない。
アメリカに物質が欠乏するから、戦争が起こるわけでもなく、ソ連に物が不足するから、戦争が起こるわけでもない。
物質生産が、豊富なれば豊富なるに比例して、余計に戦争準備に発展する。
平和も戦争も、物質生産の多少、有無によって決定せらるるものではない。
平和も戦争も、唯精神的発達に、自ら決定せらるるものである。
ソ米両国は、第二世界大戦の終局まで、死生・安危を倶にした連合国の盟友ではなかったが。共産主義と民主主義とは、その当時一丸となって、枢軸国と死活を争う、激しい戦争を交えたものであった。
幸いにして、彼らが戦勝した後までも、朝鮮を三八度線で両断することも、満州、台湾、樺太、琉球を奪取することも、共同してやったことであった。
それらの点においては、共産主義も、民主主義も、共同してやれるのに、第二世界大戦が終了して、世界の人間が、東西、等しく戦争否定、平和愛好に憧れておる今日に、今さら、ソ米両国がその奉ずる主義の相違によって、第3次世界大戦を起こさねばならない理由は何処にあるのか。
ソ米ともに、相互に、侵略戦争の責任を、相手国一方の負わせ、相互に、自分の方は平和愛好国であるといっておる。そんな各自の我田引水の理由は、如何様にもあれ、かの恐るべき第3次世界大戦の地獄の釜の蓋を、ソ米両国が競うて、開けつつあることにおいては疑いない。
世界の人類は、日に日にこの焼熱地獄の釜の中に投げ込まれつつある。
現実に立って、世界情勢を判断する時に、米ソの衝突、民主主義と共産主義との死闘、第3次世界大戦を避け得る希望は、暴力戦争を肯定する人々の誰の説明の中にも見い出されない。
民主主義と共産主義との両陣営とも、各自に自分免許の平和論を唱えておるだけのことであって、実際は双方ともに人類絶滅のための進軍をいそいでおる。仮にこの中、一方が勝利を得て、地球上唯一の文明を建設して、その政府組織を作ったとしても、それは共産主義か、または民主主義になったというだけで、それで人類の社会生活は、絶対の平和が到来するということは、だれも保証する者はない。
(昭和二十五年八月)


佛陀

佛陀


アヒンサ 3 

   アヒンサ 3 (昭和三十八年頃)
中印国境紛争についてこれを案ずるに、中共は元来殺人破壊を前提として社会革命を遂行せんとする唯物主義の暴力的国家である。インドは元来非暴力を前提として政治革命を達成せる道徳的平和国家である。
すなわち平和の手段をもって平和の目的を達せし革命歴史上空前の平和国家である。
かくのごとく建国の基礎を異にする中印両国の紛争は、暴力と非暴力との対決であり、殺人と不殺生とのトーナメント(競技)である。
「諸君が、外国の侵略に対するには武器を採るより他に方便はないと考えたり、または日々起こる騒擾・暴動・反目の鎮定には、武器なくしては不可能であると考えるならば、それは誤解も甚だしいものである。
組織だった非武装の抵抗は、深夜家宅に侵入せる盗賊に対するよりも、容易に処置ができ、それが最高の形式のアヒンサと呼ぶに相応しいものである」
「外国の侵入に対して、インドは防衛力を持っていないという者がある。私は彼らが非暴力を信じぜざることを知って落胆した。非武装のインド民族がこの広い分野において、非暴力運動に集結することが、インドを護る唯一の武器であると信ずるものである」
「インドの好戦的な人々はどうであろうか、と不信に思う。私はそれゆえにこそ、会議派の人々が祖国を防衛する為に努力すべきことは、シャンティ・セーナの結集であるという。これは全然新しい防衛の試みである。会議派の他に誰がそれをなし得ようか。会議派は一つの分野において成功した。もしわれわれが非暴力部隊を充分に訓練していたならば、この新しい分野において成功することも。また確実である。」
「問一、強力な独立国家インドは、自己保存の手段としてサッティヤグラハを国の手段として採用する時に、インドは他の独立国家によって、あるいは侵入されるかもしれない。そのとき、いかにして自国を防衛するでしょうか。辺境において侵入軍勢に対抗すべくサッティヤグラハ的行動形式はどんなものでしょうか。あるいはサッティヤグラハ運動者達は敵手が国を占領してしまうまで、行動を差し控えるでしょうか。
答。私は国家は人民の大部分が非暴力であれば、非暴力を基礎として管理され得ると信じる。インドはそんな国家になる可能性を有する、広い世界の中において唯一の国である。
インドが純粋の非暴力を通じて独立すると仮定すれば、インドは同じ手段によってそれを保持することが出来るであろう。もし最悪の事が起これば、非暴力には二つの道が開かれている。第1の道は所有物を譲渡する、しかし侵入者と協同しない。
このようにネロの現代版がインドに下れば、インド国家の代表者たちは彼を侵入させはするが、人民の援助は何も得られないぞというだろう。人民は服従よりもむしろ死を選ぶであろう。
第2の道は、非暴力的方法を訓練されてきた人々による非暴力的抵抗であろう。彼等は侵入者の大砲の前に糧秣(りょうまつ)として非武装で我が身を差し出すだろう。
両方の場合、その根底にある確信は、ネロといえども全く慈悲心がないとは考えないということである。男女みな侵略者の意思に身を保全するよりは、天真に死んでいく。その思いがけない、後から後からと続く光景を見ては、その侵入者の兵士といえども心を和らげるに違いない。実際的に言えば、この場合、武力抵抗するよりも人的損害が恐らくは少ないであろう。
軍備要塞の支出は全然ない。人民がかく訓練された時、その道徳的水準は想像もおよばぬほど増すであろう。その男女たちは武力戦争において示されるものよりは、はるかに優れた種類の勇敢さを示すだろう。どの場合にも、勇敢さは他人を殺すことにあらずして、自己が死に赴くということである。
アヒンサという法則は、国境や国土を防衛する法則ではない。アヒンサ(非暴力)という法則は、人類の生命を守る法則である。近くは国民の生命を守り。広く世界人類の生命を守る法則である。」
「私は貴方たちが敗北したからいうのではなく、戦争なるものが本質的に邪悪なるがゆえに、戦争停止を訴えるものである。貴方たちは戦争に勝つことではない。なぜなら貴方たちは、ナチスよりもさらに冷酷にならなければならないから。
いかに正義のためとないえ、昼夜間断なき無差別の殺人破壊は、決して正当化されるものではない。今日行われている非人間的な戦争を、正義と呼び得るはずはない。私は英国が負けることを希望もしていない。貴方たちが、ナチスとその醜い戦争を行うことを望まない。私は貴方たちに最も勇敢なる兵士に相応しく、より気高く、より勇敢な道を示したいと思う。
私は貴方たちが非武装にして、非暴力の武器をもってナチスと戦われんことを望む。貴方たち自身、ないし人類を救わんがためには、その手にしておる一切の武器を、全然不要のものとして放棄せられんことを希望する。
貴方たちの国家を略奪せんとしておるヒットラーやムッソリーニを招きいれ、その沢山の美しい建物の建っておる美しい国を、彼らに与えてしまいなさい。
もしナチスが貴方達の家に住みたいというなら、その家を明け渡しなさい。
また、われわれよりもずっと賢明なる貴方達は、このアヒンサという比類なき新しき武器をもって、ドイツやイタリアの友人に対する方針とせられたならば、実際、過去数ヶ月の欧州の歴史は異なったものとなったであろう。欧州には無辜の人々の血と、小国に対する暴行と、増悪とは、なくてすんだであろう」
以上は、第二次大戦の初めにマハトマ・ガンジー翁が英国に訴えた言葉である。今日、私はこの言葉を挙げて、インドの諸君に訴えたいと思う。もしこの言葉が中印国境紛争解決に利益することがあれば、私の本望である。
     (昭和三十八年頃)


ガンディー

ガンディー

kinngu.jpg

キング牧師 


 アヒンサ 2

    アヒンサ 2
欧州文明の華々しいネオンサインの中に近代国家と称するものが現れた。かくのごとき強大なる国家群が地上に続々と現れては、彼等は羊の如く柔和に、小鳥の群れのごとく明朗に、共存共栄する道理はない。
国家自衛のためにと言って、一切の学問技術はすべて殺人破壊の研究に向けられ、強大なる国家の特権として極端なる殺人破壊の手段が採用されつつある。それは原水爆と称する核兵器の競争・実験・使用、その他の核兵器の発明である。核兵器の実験による被害がいかに多くの人類に災害を与えつつあるかを知って、民衆は大挙して反対を叫べども、かの強大国は馬耳東風と聞き流して、ますます人類一般に危険を与うる程度を深めつつある。
かくのごとき近代諸国家群は、自ら好んで「反宗教」を標榜する国家もある。共産主義諸国はすなわちそれである。しかざる国家といえども、国防自衛の唯一の基本となる時に、これと反対する不殺生・非暴力を教うる宗教は、国家の方針とは完全に分離されねばならない。かくて近代国家はいずれも無宗教化されてしまった。近代国家とは自衛の名を借りる殺人破壊の大集団にほかならない。
アヒンサ(不殺生・非暴力)は元来、宗教の根本原理である。近代国家が無宗教・反宗教なるときに、アヒンサを国家の基本方針として、国際問題なかんずく外敵の侵略というがごとき、それはどこにも起こり、いつでも起こりつつある、現実の恐ろしき新天地に採用することは出来ない。この時インドは果たしていかがすべきであろうか。
一般国民はもちろん國家の指導者達も、個人としては信心深く宗教的倫理体系を認めながら、ことひとたび国家の行政・外交問題となっては、宗教的信仰は閑却され、国防自衛の手段としては、全然無視されておる。ここにおいて平和なる市民も紡車(チャルカ)を捨てて銃剣をとり、いまだかって牛馬をさえも殺さなかった青年が、もって他の人間を撃つようになった。実に現代の悲劇である。
近代国家の防衛と称するものは、今日、核兵器の時代においては直ちに人類自滅の終着点に向かって暴走しつつある。しかもこの危険を抑止すべき制動器は現代文明の中には何処にも見出されない。
しかるに人類はいたづらに自滅せんがために努力しておるものではない。人類自滅の暴走を抑止すべき制動器は、古来、多くの聖賢・諸仏・菩薩たちによって到るところに簡単に備えつけられた。これを宗教と呼んで人類は信奉し随順して自滅の災害を免れてきた。
宗教の根本原理は、個人の道徳的生活の基準を示すと同時に、さらに広く社会的・国家的、ないし世界的に発展し繁栄すべき方向・目標を与えた。仏教においては個人的倫理体系を毘奈耶奈と名づけ、または小乗宗という。社会的・国家的、ないし世界的発展法則を摩訶耶奈と名づけ、または大乗という。
大乗に指示する究極目標は、個人的には成仏往生といい、世界的には寂光浄土という。現実を離れずして現実から飛躍する。

人類進化の究極目標は、進化論には少しも指示されていない。現代科学が目標なくして、みだりに進化発展するところに危険がある。
かの無数の巨大なる怪獣、恐竜の類は、自己保存のためにみだりに進化し発展して、かの恐るべき無敵の武器暴力を作り出して、これによって自ら亡び去った。今日、猛獣毒蛇の類が次第に地上からその醜き姿を消しつつある所以も、彼らがみだりに進化発展せしめたる自己の武器の災いによる。
しかるに他方、その身に何ら自己防衛の武器うを持たない人間が今日地上に繁栄しておるという現象は、これひとえにひとり人類には宗教があったからである。人類は宗教の指示せる目標に到達せんがために、常に奮闘せしがゆえである。
もし人がアヒンサの法則を棄てて、単に暴力に頼って自己保存の手段を採用するならば、人類の自滅は必ずしも今日を待たずして刀槍を発見せし時に既に自滅し了ったであろう。しかもその危険を救いしものは、他の武器や暴力にあらずして、アヒンサの宗教的信念が人の心の中に威力を発揮せしがゆえである。
    (昭和三十八年頃)


ガンディー

ガンディー


アヒンサ

      アヒンサ 1
私は日本国から来た一個の巡礼者であります。私は三十余年以前に、日本国の仏教徒の一比丘としてインドに渡り、各地の仏蹟を巡礼致しました。なかんずく王舎城耆闍崛山は、私が不断に唱えておる南無妙法蓮華経の経典を八か年にわたって釈尊が説法したまえる霊場であり、またこの南無妙法蓮華経を仏滅後二千年を過ぎて末法と名ずくる悪世、闘諍堅固と名ずくる人類自滅の戦争の時代を救わんがために、釈尊がお弟子に付属されし霊場であります。
その付属を受けし仏弟子は時を隔て今より約七百年以前に日本国に生まれて、日蓮と名乗って南無妙法蓮華経を弘通しました。
私のためには王舎城耆闍崛山は仏蹟中の第一の仏蹟、聖地中の聖地であります。しかるに釈尊成道の地仏陀伽耶にも菩提樹あり大塔だあり、初転法輪の地鹿野苑にも古きダメク塔婆や新しき塔婆や学院が建てられました。御誕生地藍毘尼園も近来発掘され、宿院・博物館も建設されつつあり、ご入滅の拘尸那城にも古き塔婆があり、涅槃堂があり、新しき精舎・宿院が建てられてあります。近くナーランダも発掘が進み国際的大学も立ち博物館もあります。祇園精舎や霊鷲山のみはただ雑木林の中に荒廃するがままに放置してあります。
およそ一代聖教五十余年の説法の中においても、ひとり法華経は釈尊出世の本懐を説くとおおせられました。
その法華経の寿量品の中に釈尊自ら分明に、その処を指定して「常に霊鷲山に在り」と説かれてあります。この経文を拝見する時に、霊鷲山の荒廃は仏弟子として耐え難き悲しみであり、苦しみでもあります。なんとしてもこの霊鷲山を復興して「常にここに在って法を説く」とおおせられし金言を、髣髴として実現させぬばならぬと誓いました。

しかしながら微力にして遂に今日まで何も成就することも出来ませんでした。
しかるに去年六月中旬デリーにおいて核兵器反対集会がガンディー平和財団によって開催され、私もまた日本国より招待を受けて参加致しました。
その時、たまたま王舎城復興計画が発表されました。いよいよ霊鷲山が現代的荘厳をもって釈尊在世のご説法の昔を今日に移すことになりました。なんという感激でありましょう。私ひとりのみの感激ではありません。およそ法華経を読める各国の人々、ないし仏教を信ずる世界の人々のために限りなき感謝感激であります。
今晩、日印協会が主催されて私のためにこの歓迎会を開かれ、各位のご参列をいただいたことを深く歓喜いたします。この歓迎会の席において一言インドの諸君に訴えることを許していただきました。
私はインドについてインドの諸君にお話することはおこがましくも思われますけれども、インド独立の父マハトマ・ガンジー翁のお言葉を引用して、私の意見んに代えたいと思います。
今度、私がインドにまいりました理由は、その光栄ある王舎城耆闍崛山の復興の祭典に列席するというだけのことではありません。去年十月以来、中印国境線において紛争が起こり、ついに戦争行為にまで発展致しました。これに驚いて取るものも取り敢えずインドに渡り、一日も早く戦争を終結せしめインドの平和建設のために犬馬の労をとって奉仕せんがためであります。
「非暴力の信奉者が侵略者と自衛者とを区別することは、あえて差し控えるのみならず、かえってそれが義務でさえもある。しかして非暴力の態度をもって自衛者に味方し、結局、自己の生命をなげうって自衛者を救わんがために与えるであろう。彼の干渉は多分その勝敗を早く終結せしめ、闘争者たちの間に平和をもたらすことさえもある」(ガンディー翁『人類愛の律法』戦争目的について、一九三九年十月一六日)私も及ばず乍ら一個のアヒンサの信奉者として、中印国境紛争に関して奉仕したいと願うものであります。
   (昭和三十八年頃)


霊鷲山


霊鷲山 2

霊鷲山


プロフィール

gyousyuusan

Author:gyousyuusan
日本山妙法寺開山 無辺行菩薩 藤井日達大聖人様の御法話を中心として世界平和にかかわる事を発信して行きます。

大津行秀

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