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宗教の真面目

  宗教の真面目
 非暴力も平和も、元来政治や経済や軍備に由って養成されるものではありません。それは
純精神的な修養訓練に由らねばなりません。精神的修養訓練は、古来宗教者の修行でありました。
然るにややもすれば宗教者達は、各自の宗派的形式や教義の研究宣伝等に没頭して、国家にも
世界にも平和や非暴力の社会を建設すべき責任感が薄くなる傾向が有ります。
宗教的相違の如きは、形式も教義も、宗教の真面目ではありません。
宗教本来の面目は、第一が不殺生、第二が不偸盗、第三第四第五等であります。
不殺生戒・不偸盗戒の宣伝に合同する事が出来ない宗教は無いでしょう。之をで現代的に活用
すれば、不殺生戒は戦争全廃、不偸盗戒は搾取反対の行動となります。
不殺生・の禁戒は、宗教者各個人・各宗派の問題に止まらずして、直ちに世界平和・人類
繁栄の基礎となります。宗教は権威を以って戦争を否定し、搾取を禁止します。
現代社会は妄りに権益を得んが為に、戦争殺人を肯定し、搾取偸盗を合法化します。是が
現代社会の救い難き苦悩となっています。
世界の宗教者は、現代文明のこの大患を救わんが為に、協力一致して宗教の真面目を発揮
せねばなりません。




日蓮大聖人様

日蓮大聖人様

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軍事基地反対世界大会に寄する書

  軍事基地反対世界大会に寄する書
 第2次世界大戦後 日本国土と、その領海はアメリカ軍事基地の巣窟となり、これがために、平和の農村の耕地と、漁民の漁場は奪われ、庶民の生活は破壊せられしのみならず、進駐軍人の無法驕慢の振る舞いによって、婦人の貞操は蹂躙せられ、少年の非行は増加し、十字街頭は、あたかも野獣の孔穴と化しました。
しかのみならず、先年の朝鮮戦争、現在の越南戦争のためには、日本の軍事基地はややもすれば、直接戦争基地化せんとしております。
国民の不安に対しては、一片の条約によって、冷笑に付しております。
その名乗るところの「安全保障」とは、その実「危険保障」の偽りの贋言葉であり、その言うところの「国土防衛」とは、「他国の侵略」「亡国の門」を開く所以であります。

たとえ武力侵略に甘んずることありても、断じて他国の軍事基地を許すべきではありませぬ。たとえ敗戦亡国することがありても、他国の軍事基地を許すよりは、なお道徳的堕落を防ぎ得る利益が多いでしょう。
いやしくも外国の軍事基地を許し、外国の軍事力に依存して、自国の国土を安全に防衛せんと欲するが如きは、最も恥ずべき、愚かな現代の大賭博であります。
軍事基地と称する悪魔の醜面を明鏡に浮かべて、全世界の軍事基地を放逐し、廃棄せんがために、本大会の成功を祈る者であります。
 (昭和四十年十月)



米軍基地


米軍基地


水燈節 水に贖罪する行事

今日は台中でチベット仏教教団主催の法要がありタイ僧3名と参加しました。
その後 夕方から新屋のタイ寺院で水に贖罪する行事があり参加しました。


水に贖罪する行事


水に贖罪する行事


水に贖罪する行事


水に贖罪する行事

水燈節 水に贖罪する行事

現世利益

   現世利益
 日蓮聖人様ほど酷い御難に遭われた人は無い。口を閉じれば御難に遭わなくても済むのを、一度法難が起れば、又次の法難の起るまで、自分の信ずる道を説いて天下を諫められた。
ここに日連聖人様の言わねばならない御使命の後自覚が有ったのであります。
言わねばならない、言えば難に遭わねばならない。難に遭う事は、或いは流罪、或るいは死罪しばしばこうした国王の難を始め一切衆生の非難の中に、正しき教を伝えて行かれた。
此れが、末法と云う悪世に法を弘める菩薩の御修行の姿であります。
長い間の幕府の政治の下に、今も日蓮宗も、天下を諫めるでも無し、世界を導くでも無し、一軒の寺を守りしておれば良い方になってしまいました。
此れではどうにも御祖師様の御志は遂げられません。及ぶ及ばないは仕方が有りませんけれども、我々は、何とかして志を発して、現代の世界の人々の嘆きを、法華経の御題目において解決して行かねばならないと思い立つ事が、御祖師様の御弟子の仕事でありましょう。
其の為には、こんなお寺も要りますけれども、実は何よりも現代の間違いの依って来たる根本を究めて、此の災いを世界から払いのけねばならない。
此れが 南無妙法連華経の現世利益であります。ここに成功すれば、人類が助かるのであります。
此れをキリスト教がやるのでもなければ、念仏宗の人達がやるのでもない。日蓮大聖人様の御弟子
様方がせねばならない仕事であります。

(昭和三十六年二月一日)



富山 立山 紅葉 十一月 十日

富山 立山 紅葉 十一月 十日

玄題宝塔様が伊東道場に完成しました。


玄題宝塔様完成


玄題宝塔様完成


玄題宝塔様完成 十月 一五日

玄題宝塔様完成 十月 一五日

 慈悲

  慈悲
 宗教的救済の対機となる者は、既に信仰に入った者ではない。又彼の寺院の壇越でもない。
今此三界の一切衆生であらねばならぬ。少なくも人間の社会そのものでなければならぬ。
就中(なかんずく)日々刻々端的に逼る人類の苦悩深き者である。涅槃行に曰く「譬えば父母に七子有らんに、父母の心は平等ならざるに非ざれども、而も病める子に於いて心則ち偏(ひとえ)に重し」応(まさに)に知るべし宗教の対機は、一切衆生の中に於いて、特に病有る子に心則ち偏(ひとえ)に重かるべき筈である。
病有る子と云うは、其の宗教の信者でもなく、又壇越でもない。街頭に往来しておる者、衣食を求めて苦労する者、悪業を作す者、邪見を宣(の)ぶる者、重労働に服する者、穢悪の生活に沈む者、犯罪の者、軽賎されし者、飢人、病人、無信仰者、反宗教者、闘争者、嗔る者、怨言多き者、世を呪う者、正法を誹謗する者、賢聖を罵詈(めり)する者等、挙げ来たれば五濁悪世の衆生の総てである。是等病める子の為に、慈悲の心偏(ひとえ)に重く其の病を治さねばならぬ。
  (昭和二十一年)


富山 立山 紅葉

富山 立山 紅葉 十一月十日

立正安国の御祈念と不惜身命

立正安国の御祈念と不惜身命(横塚上人ジャフナ法難)

 南無妙法蓮華経 スリランカーの皆様が誠に考えられたお仕事は、誰も想像もできない立派な御修行でありました。これは大統領の命に背いてやりました。けれども所詮はランカーに平和を作りあげる、その根源を自らみいだして動かれました。ほんの二・三名の人にして良く誤らずにこの大仏事をなさいました。
ここでまた一段落つきましたが、この日本山の方針では我々が次から次とランカーの前途のために身命を捨て、屍を並べていくその内に仏事が出来ると考えました。私もその方針を一応認めましたけれども、昨10日の昼過ぎにランカーの治安大臣が直接、「日本山の最高指導僧にもの申したい」と申しました。電話をもって尋ねてきました。
それでランカーの日本大使館に問い合わせましたけれども大鷹弘大使も不在で間に合いません。直接その話を聞きました。「ここでまた、あなた方の一門が次々に屍を並べてランカーの永遠の平和を作ろうとしている。これも一つの方法である。しかし国際的に見てスリーランカーは仏教国である。
他の仏教国のお坊様がランカーに渡って一人ならず犠牲を払うということは、ランカー政府も耐えられない問題となった。」
この一人のお坊様の虐殺が日本でも大きく取り上げられましたが、これは世界の問題になりました。いまだ世界の仏教徒の中で、他国の平和の建設のためにと言って犠牲になった例はありません。
これは一人、日本山のお坊様の覚悟であります。この後、二・三人と続いてここに菩薩行を起していくことは、日本山のお坊様として覚悟を決めてかからねばならないことと考えかしたが、治安大臣のお話では、何とかここしばらく日本山の開教をジャフナから引いてもらいたい、と申します。
ようやく重大さを世界がここに目をつけて驚いておる姿を見ました。
それでこの人も交えて、ランカーの仏教復興・宝塔湧現を促進することになるでしょう。
おりもおり、南インドのコモリン岬の仏事が起きました。南インドは竜樹菩薩の大乗仏教弘通の本家であります。そこからまた大乗仏教の興隆が起るに違いない。そのために日本の方も力を入れて、タミル族の仏教興隆に協力しようという話が声高く叫ばれるようになりました。
ここで菩薩行といっては、日本山は屍を並べてこの大仏事を完成しょうと思いましたが、国際的に考えるとスリーランカーは仏教国、その仏教国で仏教僧侶をしきりと犠牲にたたせては、ランカーの面目もたたない。それでここはランカーの大統領以下の思し召しとして、しばらくジャフナの開教を取り止めて、以後、政府の、自分達の手によって両民族の融合に努力するという申し出を信じてまいりましょう。
これも日本の方も世界の方も、一人の犠牲によってかくも世界を振動させました。
今後は南インドのコモリン岬に宝塔を湧現させます。そこにタミル族の仏教信仰を養い育てて、それをランカーのタミル族のところに送って、タミル族自らランカーに宝塔を建てて、シンハラ民族と一諸に礼拝供養するようになったならば、なお平和にことがすむ。けれどもこれには多少の時間がかかる。その時間を日本山が補ってタミル族の信仰を養っていこう
という腹が決まりました。そこでここではランカー政府の政策、面目を生かしてゆきます。治安大臣のお言葉では政府の面目のためにもジャフナからこれ以上犠牲者をださないようにして頂きたいと申しております。
いまや世界の人類の頼るところは、この本門の教主釈尊の三大秘法だけ。これは説教せずに時が来て、広まります。あのキリスト教国のロンドンに一人の反対者もなく、宝塔建立がすすみ、市民がみな賛成して協力者になっております。この日が目に見えます。
精神的なものが世界を開いております。これを信じて少し手間がかかるけれどもスリーランカーの国家の政策の成功によって、ここの難局が一応治まり、そうしてタミル族の本場から仏教復興の使いが渡って協力して、ここが助かる道があくかと思います。
それで日本山のご出家の道は、横塚上人一人を死なせただけで我々は死ねないのかと思うでしょうが、
しばらくこの一人の死というものが、どんな大きい力を、いま世界に示しておるかを見なければならない、滅びない仕事、動かす力はこの横塚上人一人の犠牲で、ことが足りると思われました。
あなた方はまた死に場所をどこか探して下さい。日本山は有難く世界の平和建設の基礎になって追っていかねばなりません。
一人の犠牲に対して耐えて下さい。身命をここでは忍んで永らえて下さい。そうしてまた死に場所を探して下さい。本当に僅か三十二歳、この世界を動かしました。誰が聞いてもこの尊いスリーランカーの平和建設の基礎を作りました。
いまここに、この人の犠牲がやがてまた他に開くでしょう。尊いことでした。有難いことでした。
あなた方の命の捨て所、ここしばらく我慢、政府の政策を助けていくように致します。時がいま来たようです。日本の方はタミル族の仏教復興を助ける気になり、世界中がこういう気分になって来たのです。あなた方も臆病ではない。ただ死ぬる場所をもう一つ選びなさい。有難いことです。
 ------------中略 ----------
可哀想に若くして身命を捨てました。これもやむを得ません。私も年寄って動けないのに、まだ生きておる。こういう者もある。これもまた仕方ない。
 (1984年11月11日 熱海道場)



横塚上人

横断幕後方中央が横塚上人


世界平和と仏教徒の戦争責任 その5

世界平和と仏教徒の戦争責任 (日本山への誤解を正す)大法輪 その5

「戦争責任を棚上げにしたまま教団仏教が語って来たのは「世界平和」でした。」
世界平和を語ることは、好いことである。世界平和は誰が語ってもよい。世界平和を語る資格のない教団というものもなければ、僧侶もない。
世界平和は一部の増上慢心の殊階級の独占論ではない。たとえ、
戦時中に責任者、特軍事協力者であっても、或いは戦争債務者であっても、現代に於いて世界平和を語るに何ら躊躇すべき所以はない。

日本山はたとえ戦争責任を棚上げにしても、また堂々と「世界平和」を語る。第三者からは或いは「日本山の恥知らず」と非難されるかもしれない。日本山は世界平和を語る
を以って、恥としない。
豪も臆する処なく、世界平和を語り、世界平和運動の先端に立つ。是が則ち日本山の勇猛心であり、日本山の精進力である。
世界平和を語ることは口業であり。平和運動を行なうことは身業である。身業口業である平和運動を行わんとする。その信念、決定は、意業である。
世界平和とは『法華経』の法門からいえば、如来寿量品の自我偈に説く所の、
我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林諸々の堂閣 種々の寶をもって
荘厳し、寶樹花果多くして 衆生の遊楽する所なり 諸天天鼓を撃って 常に諸々の伎楽を作し、曼荼羅華を雨らして 佛及び大衆に散ず。

である。
我此土は現代の世界の理想的青写真である。これを「娑婆即寂光」と天台大師は解釈し、日蓮大聖人もこれを「立正安国」と説かれた。この経文に、国土世間の荘厳と、衆生世間の遊楽とが挙げられてある。
『法華経』の信解品に、菩薩行の二項目が示されてある。その一は教化衆生であり。その一は浄仏国土である。菩薩行三祇百劫、ないし勤踰塵劫の菩薩行の成満の姿が、如来寿量品の自我偈の我此土安穏の経文でる。
日蓮大聖人は『開目鈔』に「一念三千の成仏に非れば、有名無実の成仏往生なり」ととかれた。
一念三千の成仏とは、その中に国土世間の成仏があり、衆生世間の成仏があり。五陰世間の成仏がある。
我が身の成仏は国土世間の成仏を離れ、衆生世間の成仏を離れてては成り立ち得ない。何となれば、
国土世間も衆生世間も、我が己心の一念三千の諸法なるが故である。
これが日本山の平和運動の原点である。即ち平和運動の身口意三業の中の意業の信解である。日本山は衆生世間の成仏のために撃鼓宣令する。「衆生の遊楽する所 諸天天鼓を撃つ」という経文の現代における実現である。日本山は、国土世間の成仏のために宝塔を立て仏殿を建てる。「園林諸々の堂閣 種々の寶をもって荘厳する」という経文の娑婆世界の実現である。
日本山の平和運動は、迎合主義でもなく、無規定的で、無原則的法華経でもない。かくの如き『法華経』の解釈を、恣意的に仏教の解釈と非難する者が、果たしてこの外にいかなる仏教解釈を正当化することが出来ようか。
日本山が従軍中に「撃鼓宣令」した事を無視し、南京城一番乗りを大書して「戦争協力者」と罵り、戦時中に広供養舎利の経文の如く、いかに奔走したかは総て黙殺して、一言も触れていない。
日本山の生命線を押さえずして、外形皮相を見て、それで日本山を非難することは無理ではなかろうか。

第三者は疑うて謂うあろう。「もし日本山が定軌的に一貫した平和主義であるならば、何が故に一山の
青年僧を挙げて従軍僧とっして戦場に往来したか」と。然り
私は西天開教の一期の大仏事を中途半端にして、急いで日本に帰り、急いで戦場に駆けつけた。
その主旨は、前掲の丸山先生の「修羅の時代の宗教」と題する中に説かれてある。
歴史の転換期における宗教は、その時代を領導していくものだったと私は考えてきました。いま申し上げたような、いわばアクシデントをひとつひとつを乗り越えていかなくてはならない。いまからもこういうことはつぎつぎに起こってくるでしょう、それが現代という難しい時代の特質だと考えるべきだと思います。
そういう二重三重の困難を突破して行かない限り、民衆の宗教としての働きを顕すことはできないでありましょう。
宗教というものが、ひそやかに個人の心の中にあたためられ、そこに抱かれて救いを成就するという、そういう幸せな時代というのもあるでしょうが、しかし、現代のように、時代の修羅の様相を呈している激動の時代においては、個人の心の中におさまっているような、平穏な宗教からは大きなへだたりが生じてくるでしょう。そのような時代に宗教とかかわっていくことは、みずから修羅道に入って行かざるを得ない、修羅道を通過すること以外に、個人の安心もまたないだろうというのが、私の繰り返し申し上げてきたことであります。
右の先生の現代修羅道に分け入って、種々の困難を通過して、宗教の救済を説き、且つ行なうことが、実は日本山の行動であったとは、先生は思い召されないであろうか。
日本山はこの文章を拝読して驚いた。これは只事ではあるまい。先生にしてこの文章を認められたことは、忝くも高祖日蓮大聖人が先生の頭に入り替えらせ給い、日本山の正義を証明し給うた所以であろうと信じた。
南無妙法蓮華経




平和・戦争・平和

プロフィール

gyousyuusan

Author:gyousyuusan
日本山妙法寺開山 無辺行菩薩 藤井日達大聖人様の御法話を中心として世界平和にかかわる事を発信して行きます。

大津行秀

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