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マハトマ・ガンジー翁と祈り(2)

インドとお祈りと戦争
それが近頃になりましてインドはいつも戦争ばかりしております。困ったことであります。最近、私はインドへまいりました。そしてガンディー翁の跡を継いでいるヴィノバという人に会いました。この人は私たちのことをよく知っていて、私に百姓のできるお坊さんをインドへ寄越して欲しいと頼まれました。
農業を指導して、お祈りをする人と言いましても、ちょっと見当たりません。
で、送れずにおります。そこで私は話ができませんからヴィノバに手紙を差し上げました。その中で私は「ガンディー翁が在世の頃は人が大勢集まる所では必ずお祈りがあった。それが最近ではなくなってしまった。」と言うことを書きました。ヴィノバはバラモンの出で、私も何度かお話しの席に出ました。
けれども、そこではいつもお祈りがなくてお話があります。
現代のインドにおいて最も大切であるべきこのお祈りが失われていることを、私は悲しく思いました。これは悲劇であります。仏様神様を拝むことが軽視され、代わりに黙祷なんていうことを採用して、お話の前に形式的に目よています。簡単でよいようでありますが、この祈りが廃れてきた現象はよ喜ぶべきことではありません。
ここに今日のインドの間違いが兆しているのです。武力をもって戦争をやり、血を流して自分に言い分を通そうとしても、それは成功しません。こうした考えは、もはや西洋人や日本人と少しも変わりません。修羅根性であります。
この争いを食い止めていくのがお祈りです。仏様神様の前にまず謙虚な気分を作っていく。この肝心なことがインドにおいて廃れて来たことが、今日のように武器を取って事を解決仕様とする態度になっているのです。
ガンディー翁はお祈りをすればやがてインドは独立すると言いましたが、当時はほとんどの人が信じられなかったのです。いつも疑いをもっていました。亡くなったネルー首相がこれを信じきれなかった。インドは一兵も持ってはいけない。軍隊は絶対に置くべきでないと言うガンディー翁の意見に対し、ネルーさんは騒動が起きた時、それを鎮めるのに軍隊がなくては鎮める事が出来ない。お祈りをしていれば鎮まるなんていうことは信じられないと言って、結局、それでガンディー翁と意見が分かれてしまいました。
ガンディー翁の言葉を空論として、みんなはネルーさんの考えを支持しまた。
ところが軍隊と言うものは持ったが最後、どんどん大きくなって行きます。軍人はわがままになっていきます。日本でもそうでしたがインドも同じ事をやっております。最近のインドネシアが良い例です。軍隊が力を頼りに威張り始めると、とても手がつけられたものではありません。
人々は側にもよりつけられたものではありません。こうした気分になりますと必然的に戦が生じてきます。敵を侮り、自ら驕ります。こちらの言うことを聞けという気分になり、それを力で推し進めていきます。そして戦が絶えず、世の中が乱れていきます。
日本は戦に敗れました。しかし今また自衛をするんだと言って軍隊を養っております。自衛というのは戦を意味します。戦によって今日、国民が守られていくという事実は何処にも見当たりません。
ベトナム戦争でも一番大きな被害を受けているの者は、女・子供たちです。守られるべきはずの人々が一番多く殺されております。どこえ訴えようもなく泣き寝入りのほかしょうがない現状であります。戦が起これば国民は守られるのではなく、みんな殺されます。
武器を持たねば殺されるというなら、それで殺されればよいのです。拝んで殺されていかねがならない。祈っている者に爆を投下しません。相手も手を控えねばならなくなります。これが人間の文明というものであります。
人間はもはや戦争手段において行き詰まりました。これからは新たに生きていく道を求めねばなりません。それは平和の道を求めることです。国際的に平和を作っていくことです。政治家は平和を作らないで戦争を作ります。その政治家の創り得ない道を目指して、われわれは心の平和を作っていかねばなりません。これが我々国民一人一人の仕事です。
この力はやがて日本国の大きな力となり、世界の利益となっていきます。現代は人を殺すことが勝利となる時代ではありません。
浄心にわが心を信じ、仏様神様の存在を信じていく。無限の絶対の力を信じていく以外に、人類が救われる道はありません。平和に我が心を静めていく力、これが一人一人の中に宿るとき、真の世界平和は自ずと築かれていきます。
                       (昭和四〇年頃)



ガンディー4





マハトマ・ガンジー翁 

 
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王舎城日記

       王舎城日記

  南無妙法蓮華経        王舎城 二月廿五日   日  達

 昨日漸く長途の旅行を終へて帰山致しました。「本来の使命」十部空送に預り一百日を過ぎて再び本来の使命を再見致しました。花岡山「天鼓」十二月号をも併せて拝受致しました。
 当地は炎熱を催す風が起つて黄塵天を覆ふが如くであります。内地は梅花咲き揃ふて春正に来らんとする好季でありませう。拙子も長途の旅行に疲労を覚え折々臥床する事もありましたけれどもかく新しきインドの各地を巡り多くのインドの人々に会ふことを得ました。インドの直面せる問題を我が正法弘通の問題として之が対策を考へております。
 晩景、温泉に漕浴し了るや一時に電灯がつきました。回教温泉も大光明を放ちました。市中も街路も電灯がつきました。行阿院様の御逮夜に当たりますので一層有難く感じました。
 
二月廿五日、今日は行阿院様の御命日でありますが晨朝来入浴後身体の条件にかゝつらつて朝課も満足に出来ませぬ。霊鷲山に参詣し度いと念じ乍らそれも出来ませぬ。唯一度に静養をさせて頂きました。王舎城で健康を回復せなければ外に健康回復の場所はありませぬ。王舎城は我為には制諸苦患所であります。行阿院様のご回向とて何一つもせずに終日休養にあてました。
 午後五時からダークバンガロウで州の水利電気の大臣が祝莚を開くと云ふので招かれてゆきました。日本山は綺麗で無いとか、日本民衆は好戦民族では無いかとか云ふのでスワミジーが弁解是れつとめましたけれどもなかゝゝ大臣は得心しませぬ。インドの大臣級の中にもこんな考へもつた人もあつたかと始めて驚き入りました。御茶会のあとで講演会が開かれました。ナーランダ大学の迦葉が来て大臣のあとで御話を致しました。
 来三月朔日頃に州の大蔵大臣が当山を訪ねて来ると云事です。仏教復興の企と同時にビハル州の開拓に就て商量する筈であります。其うちに州の首相にも見参することになりませう。日本の農民移住の問題もありませう。東パキスタンからの避難民救済の御話もありませう。何等かお役に立つやうな御話が出来ればよいと念じております。
 スワミジーは此道場附近に地所を得て自給自足の態勢を整え度いと申しております。其土地は回教温泉の東北に当る所一帯でスワミジーはそこが竹林精舎跡だと申しております。現在の所では温泉附近を標示して竹林精舎と申しております。もし其土地が得らるれば幸であります。日本の農民も此精舎に止住し乍ら開墾と起塔供養とに奉仕することが出来ます。
 蛍が夕暮には少し光だしました。スワミジーはハリージャンの学校を開き度いとも申しておりましす。何れもよい考であります。
 インドに仏教衰滅の原因を探る時にどうしてもサンスクリットを習学してベダンター哲学を究めなければならないやうです。甲市のラマクリシナミツションの学校へ入らねばなりませぬ。青少年の渡天を必要とするやうです。
 精舎に近い所の小温泉附近に水利の為にボーリングを下ろしております。灌漑用水にすると云ふことです。
 此道場のスワミジーも多難な人であります。ビルラジーにも中傷する者があつて日本へも渡る事が出来なかつたと云事です。ビルマの道場は彼国の政府の援助もあつて愈盛大になるに引かへ当山は外護者もなくて自ら寂漠であります。経営も困難で小輩もおかずして親戚の子供二人、十才未満のものをよんで用を弁じております。併し大願を発して一向に屈托せない人です。十才未満の子供達が日本に往て出家すると申しております。日本にはこんな子供は無いでせうか。
 
 二月廿七日、スワミジーは佐藤師の所にてインドに於ける仏教衰微の原因を物語り又薬石の際にも物語りました。之を聞けば三百の鉾を以て胸を刺さるゝと云ふおもいが致しました。
 今日は肩の痛みさへ覚えました。脚部の疾も疲労の続く限り全快することはありますまい。願くば小病小悩にして気力安楽に住せざればインドの大仏事に取組む事は出来ない。スワミジーも心配して熱湯を沸かして瓶に入れて肩にあてゝくれました。之がどうやらよかつたやうで安楽に休眠しました。
 
二月廿八日、今朝六時起床早々霊鷲山にお詣り致しました。廿五日に御詣りせなかつた事が申訳なき解怠でありました。懈怠も際限なく我を悩乱する煩悩であります。今朝から懈怠の悩乱を解脱せねばなりませぬ。
 帰り来て御茶を頂き終つた頃は既に午前十一時を過ぎました。今日午食を廃し晩に雑炊を焚いて頂くことにしました。雑炊は日本の専有でなくてインドのベンガル州の常食だと云ふので炊事の指図もいりませぬ。
 お茶を飲み乍ら昨日来のインドに於ける仏法衰滅の理由としてスワミジーが数へた所に就て私は之に検討を加へました。
1)、仏法の制戒中には故殺肉で無ければ肉を食べてもよいと云ふ開許がある、仏教僧伽の比丘衆等は肉食せんが為に禽獣を撲殺することを避けて窒息死せしめ之を自然死の如く偽りて肉食をした。
2)、には仏法の制戒の中には糞掃衣作らんが為に塚間に残されたる死屍の被衣を拾ふ事が許されてある。之に由て仏教僧伽の比丘衆は屍骸の被衣を剥ぐのみならず、やがて野辺や塚墓にて追剥強盗をするやうになつた。
3)、には仏法僧伽の比丘・比丘尼には独身生活が要求されてあつた。独身生活はインドに於てはひとり仏教僧伽のみならず、苟も求道の士は皆悉く独身生活をする習慣であつた。然るに仏教僧伽の中に於ては婬風昌んに行われて子を産み育つることになった。是に於て仏教はインドに於て滅亡せざるを得なくなつた。
 自ら仏教徒とは称えないけれども此んな風習を伝へたムルーと云ふ一部族が存在する。之をインドの四階級の外において軽賤して不可蝕賤民と云つた。現在開放が叫ばれつゝある不可蝕賤民こそは堕落したる仏教徒の末路である。
 こんなお話は始めて聞いた、之を聞て胸を刺さるゝおもひのせない仏教徒はあるまい。私は仏教徒として之を検討しました。
 以上の条項は令法久住の為に世尊親ら厳重に制戒を加え給ひし処なるのみならず、毎二回の布薩会を開いて一切の比丘比丘尼を集めて之に関する、見、聞、疑、を斗して僧伽清浄の道を開かれた、其条項は広く二百五十戒もあるけれども特に殺盗婬妄の四重罪は法滅の根源として其犯過の人は僧伽の生活から兵出する規制になつておる。インド仏教僧伽の中に於ていかなれば此規則が行はれず放逸着五欲にのみ耽ることが有り得やう、仮依若干の者が此四波羅夷罪を犯したりとて、それで法滅にはならない。
如来の在世すら猶此事はあつた。不邪淫の制戒は当時にあつた事実から起つたものである。妄りに他の殺盗穰婬の犯罪を説くは他を讒謗中傷せんが為に外ならない。此の如き説過罪は適額なる文証無き限りは信ず可きことでもなく、又妄りに他に説き広む可き事でもない。
 是は要するにインドのヒンヅー教徒が仏法を怨嫉して国王大臣婆羅門居士の為に説過罪したる偽証妄語にしか過ぎ無いと考へられる。仏教が伝来せるバルマ、泰、セイロンの諸国、中国、日本の僧伽に於てすら、なほ此の如き犯過が行はれて居ないのにいかんがインドの仏教僧伽に於てのみかゝる事が法滅をひく迄に行はる可き。中傷妄語に過ぎない事は明了である。又不可触賤民を目して仏教徒と云ふも仏経を軽賤せんが為に最下級の社会生活をする者の間に伝来せりと云ふに過ぎない。彼等の中乃至一人も仏教徒は無い、皆悉ヒンヅー教徒である。スワミジーも文証文献の微す可き物はない、従て是を飽く迄仏法滅亡の原因とは云ふ事は出来ないと申しました。
 シャンカラの師匠は深く仏教の中に潜り込んで仏教の短所を隈なく調べあげて是を以て仏法を滅亡せしめよとシャンカラに命じた。併らシャンカラは私は仏法の長所を学んで之をヒンヅー教中に吸収してヒンヅー教を復興するつもりだから仏教の悪口は云はないと辞退して其師の許を離れたと云ふ。かりにシャンカラがかゝる仏教の悪口を吐かなくとも其師はたしかに仏教の悪口を構成したる人である。此悪口がヒンヅー教の間に一般に喧伝せられて結句スワミジーにも及んだものである。
 日本の古神道を祖述したる平田篤胤の悪口にも増したる悪口がインドの常識となつておる。
 仏法がインドに衰微する頃からインドの内面的衰頽は起つたとネールのインドの発見にも認めておる。正法を怨嫉して崩壊せしめたる結果は遠からずして侵入賊回教徒に由つて征服せられ永くヒンヅー教王のインド支配は出来なくなつた。是は現証現罰である。
 
 三月朔日、日の出を霊鷲山にて拝まんが為に午前五時すぎから道場をでました。しかしそれでも霊山の日の出には間に会ひませぬでした。山上のおつとめを終つて下らんとする時、駕籠幾丁に分乗した参詣者に会ひました。山を下り終ればバルマの僧俗が三台のトンガに乗つて参詣するのにも会ひました。山を下つて埃深き山道を辿つておる中に虎の足跡を見出しました。山上にておつとめ最中には一番の鷹を見ました。今朝は猛禽獣を見る日でありました。
 
 三月二日、今日は大蔵大臣に見参する日であります。大舎城とナランダとの中間駅白尾村に於て農産展覧会が開催されその会場に大臣が臨席するので其ついでに会見する事になりました。
 会は午前六時の祈祷会に始まり午前八時の国旗掲揚式があります。会場迄三哩程でありますが、祈祷会に間に合はんが為には午前五時半温泉場始発のバスを利用せねばならぬ。その為に午前四時半頃から眼を覚してバスに乗込みました。会場は昨夜電燈が無かつた為に設備が整はず夜明をまつて設備をやつております、祈祷どころではありませぬ。
 先日スワミジーに就てヒンズー教の御話を聞きました。シャンカラは仏法を吸収した、其大要は如来は四聖諦八正道を説かれた四聖諦八正道を採用すれば別に仏教徒たることを要しない。如来の説法は機根の宜きに従て三界皆苦と説かれた。シャンカラはバガバートギータに由て常楽我浄と説いたと云ふ事でありました。そこで四諦の中の苦諦が事実であることをお話しました。先苦諦の初に生老病死苦の四苦を挙げて一々説明しました。スワミジーは衆生が是を苦なりと謂ふのが無明の迷いであつて本来常楽なものである蛇縄麻の譬喩を挙げてなかゝゝ苦諦がわかりませぬ。此問題は到底結論には達しない。若し強いて苦楽を争へば分裂を生ずる恐れがあるから止めて下さいと申出ました。常楽我浄の四顚倒は古今一貫しております。然るにスワミジーは副大統領やネールの最近の論文集を見て下さいと提出したのを今朝の徒然に読みました。然るに副大統領が三智の宝塔参詣の時の演説の中に、釈尊は娑婆世界の苦痛の現状を指摘して之が救済の門を開き苦悩の世界の外に別の安楽の世界があることを示された、そこは我々が往き得る世界である。こんな意味の言葉が有つたのでスワミジーに示して三界皆苦の認識がラマ、クリシナ、ミツションの支持者の口から洩れたことを知らせました。スワミジーは沈黙しました。
 国旗掲揚式があつて一寸帰山しました。四時から式が始まるのでそれ迄休息するわけです。帰つてお茶を頂き剃髪をしておる間に入浴する暇も無く又会場に自動車で案内されました。会場は既に満員でありました。ナランダ大学の学匠達も五、六名着席しておりました。四時半になつても五時になつても大臣はみえませぬ。大衆も倦怠して幕舎の外の展覧会見物にゆく者が出ました。五時半になつても六時になつても来ませぬ。六時をすぎて電燈がついて随分おくれてやつと大臣が見えました。小供芝居が始まりました。インドの国語は何に統一すべきかと云ふ議論をしました。次に大人の芝居があります。税金や選挙や政党の啓蒙をし、大臣達に灌漑用水を下さいとなんぼ願つても彼等はすぐに忘れてしまつて水は一滴も下さらないなどと云ふ仕組みであります。日本の博多二ワカ見たやうなものでした。
 大臣が退坐してダークバンガローに下りましたのでそこを訪ねて見参、日本から青年農業者を当地に送り込み度いと申出ました。大臣は悦で之を承諾されました。今日は珍しく霊鷲山に雲が起つて小雨がパラつきました。電光も雷鳴もありました。日本でも春雷が鳴動する頃でせう。
 
 三月三日、今朝霊山参詣に御寺の犬が随行しました。霊山で唱題修行中に尾長猿が出て来ました。うづくまつて居た犬はお猿に喧嘩をしかけました。お猿は身軽に逃げました。霊山の附近に二三日前から真紅の花や小桜やゆすら梅のやうな花が潅灌木に咲きました。黄色の大弁の花も咲きました。一枝宛手折りました。今朝はセイロンの僧俗が御駕籠に乗て多勢霊山へおまいり致しました。道中にて煉瓦のお玉など拾ふておる中に兎が喰はれた名残に毛が散乱しておりました。畜生道残害の苦諦の当相であります。日本は雛のお節句桃の花に白酒菱餅のおそなへは綺麗な豊富な社会生活を表示したものであります。我此土安穏天人常充満の模型とでも云へませう。平和な思想を爰に育てあげるのです。野辺に山辺に若草萌え百花将に艶を競はんとする天地に人間の社会生活も亦花の咲くが如くに美しく楽しく暮らすべき道を教へたものでありませう。潮汲は婦人の重労仂、はやし方は社会の娯楽であつていづれも賤しむ可からざる正業であります。
 此道場に花厳経有り往昔昭和十一年に炎熱期、此道場未だ成らざる頃樹下に病を養ふの傍ら是経を拝読せり。今日此経を披いて昔日に還るの懐有り。
 入法界品第卅四ノ十一を披く
  乃往古世に如来出興し給ふ智慧法界山諸方寂静普照王隷応供等正覚と号け奉る、爾の時に大王有り一切法獅子吼円葢妙音と名く彼大劫の中に悪劫の起る有りて五濁熾盛なり爾時に人民十悪業を行じ十善を遠離し死して悪道に入り寿命短促にして形色鄙陋貧窮下賤に多苦小楽更相諍控訟し互相謗毀し他の眷属を離れ深く邪見に入り諸の貧着を以て非法を行ず、時に彼大王即十大悲語を発せり何等をか十と為す。
 「嗚呼痛しい哉一切衆生底無き生死の深坑に墜ちて帰依する所無し我当に彼が為に帰依者となりて悉く如来地を得せしむ可し」云々
是の如き十大悲語を発して鼓を撃て一切衆生に宣令すらく
「安穏にして怖るゝこと勿れ、汝の須ふる所に随て我皆資給すべし」と云々  已上経文
 撃鼓宣令の四字は近く法華経の提婆達多品に在りと雖又広く諸大乗経に散見す、我等今幸にして撃鼓宣令して一切衆生の中に入る、もし妙音大王にならはゞ布施波羅蜜を行ずべし、而して衆生の為に宣令すべき言葉は「安穏にして怖る事勿れ」一切衆生をして安穏にして怖るゝ事勿らしめんが為に撃鼓宣令せねばならぬ。我等貧窮にして財宝を布施する事能はずと雖一切衆生をして安穏の想ひ無怖畏の力を得せしめんが為に撃鼓宣令せねばならぬ。撃鼓宣令の妙音はよく衆生をして安穏の想を生ぜしめ無怖畏の心を生ぜしむるものである。不安の時に法鼓を撃て恐怖の時に法鼓を撃て、法鼓を撃つてはよく不安を除き怖畏を離れしむ。彼の大王の名を妙音と呼ぶことは撃鼓宣令の故である。我等もし法華経の提婆達多品に由つて撃鼓宣令ある時に彼の檀王の本生譚を学ばねばならぬ。
  「鼓を撃て四方に宣令して法を求めき、誰か能我為に大乗を説かん者なる我当に身終る迄供給し走使すべし」文

 檀王の撃鼓宣令の言は、此一期生終身走使すべしと云ふ誓言である。我等撃鼓宣令する者漸く老境に至れば他の為に供給し走使することをものうく想ふ。我等少分の智解を得れば他の為に供給し走使せざるのみならず求法学道の本懐を忘れて却て他人をして我為に供給し走使せしめんと欲するに至る。法華経の法門は色神二法心口意三業にわたらねばならない。少年出家の朝には他の為に或は供給し走使することを甘じても、漸く一院一寺の住職となれば最早他の為に供給し走使する事を忘れて大山名刹の住持となるの夕は我が身に他をして供給し走使せしむることが当然の名誉乃至権利の如くにまどひおもふて但だ終日空閑に住するを以て楽となす。終身の二字は既に読まない人のやうである。かく云ふ我身も亦我が一身の為に或は一名二名乃至十名の大勢の人を供給し走使せしめたるには非るか。日本山衰微の原因は我が学識の足らざるが為では為くて他をして我身の為に供給し走使せしめたる点であろう。世間に行じて他の為に終身供給し走使すること能はずんばむしろ一人林野に止住することが賢明なるをしる。
 撃鼓宣令を行ずる諸子よ檀王の本誓願として宣令せられたる「身を終る迄供給し走使すべし」の一句就中終身の二字を工夫して我身に行ぜしめよ。法華経の法門は此に由つて広宣流布せん。
 爾の時の阿私仙人は撃鼓宣令の檀王に対して「我大乗を有てり妙法蓮華経と名け奉る。若し我に違はずんば当に為に宣説すべし」と云て我欲するまゝに大王を供給し走使せしめ採果汲水拾薪設食乃至身を以て牀座となさしめた、此の如き憍慢心は撃鼓宣令の檀王が釈迦牟尼仏として出世成道する時に彼の仙人は提婆達多となつて釈尊よりは更に五法を行じて貴げになり結句破和合僧罪を犯して生身無間大地獄に堕ちた。我有大乗名妙法蓮華経は大真実の法なりしかども我が意に任せて他の求法の道人をして供給し走使せしめ採果汲水拾薪設食乃至身を以て牀座と為さしめしことが積り積つて破和合僧罪を犯さしむるに至つた。諸子よ我れ妙法蓮華経を有てるの故を以て他をして我為に供給し走使せしむることあらばやがて破和合僧罪を犯して堕地獄の果報を得ること彼の提婆達多の先身阿私仙人が例証である。撃鼓宣令の行者は終身他の為に供給し走使す可しと云ふ誓願を忘れてはならない。他の為に供給し走使することも法華経の如説修行であつて下賤なる労仂では無い。此誓願に住して妙法蓮華経を受持するならばやがて檀王の跡をついで釈迦牟尼仏となるであろう。即身成仏の法門とは終身供給し走使する中にある。
 
 三月四日、今日より月並の断食修行を企つ、暁の明星天子を王舎城北門の上空に仰いで霊鷲山への荊莿の道を急いだ、霊山のおつとめを終つて第一峰の阿育王塔の趾に登る、往年王舎城に在りし時には御断食中にも毎朝第一峰に登つた、今度は身に病を帯びて従来登る心にもならなかつた。昔巡りし路なれど廿ヶ年の歳月を隔てゝ荊莿愈々茂り雑草益々深くして容易くは登られない。漸くにして第一峰の頂上に達して御修行しておれば一人の若者が半裸体にして竹杖と縄とをつて登つて来た。王舎城外の林の者で草刈りに来たと云ふ。王舎城低い処は荊莿林藪の中であつても水牛や山羊の大群が毎日たべ廻るので雑草などは一本も無い田畑の畦や路傍の草などはいつも根が掘り出されないと云ふ迄にはみ尽されてしまふ。そこで草刈りに山に入ることになる。而も霊山も第一峰に非れば又雑草が無い。遠い林から此嶮難に登つてよく幾何の雑草を刈取るであろう。それで幾頭の畜類が飼へるであろうか。彼は飯は無いかと問ふ、こちらも今日は御断食で何も食べて居ないと答ふれば其まゝ下つて草を刈つた。生活も亦容易では無い。第一峰を下りかけに犬が俄に立畄まつて一声吠へた、吠え乍らあとしざりする、さては何か犬の為に恐しい者が見えたであろう。佇んで後から法鼓を撃つた。恐しい者も何処へか往つたであろう我等も亦無事に下つた。
 
 三月五日、朝風寒く身にしむ、五時半には街頭の電気も消えてひとり明星天子の光明が輝く、お寺の犬は昨日の雑儀にこりて今朝は中途から帰つた。太鼓撃つ手の指先がこゞえを覚ふる肌着を重ねて出ればよかつたとおもふ御断食で余計に寒い、霊山に登る迄幾度か休息する、僅に一日の御断食で効果はてき面である。おつとめを終つて無事に山を下つた。燕が沢山霊山に舞ひ遊んでおる。
         敷島の軒端を去りてつばくらめ
            鷲の御山に詣りけるかな

 帰り途に沢山のバルマの僧侶に会ふ自動車やトンガヤを利用して来た人達である。傲然として会ふ人に会釈する程の礼儀もしらない、憍慢の張本の如くに見ふる。剃髪と乞食とは此の如き憍慢心を去らしめんが為の僧伽の制戒であつた。我等も会釈もせずに撃鼓宣令しつゝ通り抜ける、是が仏教僧伽の現状であれば興隆仏法は覚束ない。我は但行礼拝に住せねばならぬ。末法の仏弟子として法滅尽時の三宝として礼拝せねばならない。失は我にあつて彼には無かつた。活動写真機をもつた四五名の青年に会ふ霊鷲山の光景を撮影するのであろう其の為にバルマの僧俗がやとわれて登るのかもしれない。
 インドの仏法滅亡の原因を分明にせなければならない、是が分明ならざる限りインドに仏法復興は困難である。此の為には吠陀ウバニシャッドシャンカラの教義を研究せねばならない。仏教滅亡の原因が秘密にされておる処に不審がある。ヒンズー教の秘密にそこにある。あゝ我には余命が無い。此大事をなすにはあまりに春秋が傾いた。気がついたのがお遅つた。もし渡天の最初に此疑問に逢着したならば或は解決を与ふる事は出来たであろう。あゝわれ渡天以来何を為したであろうか。残念なること限りが無い。われ来世必ず応に此疑問を解決すべきである。来世の誓願に此身を終わらしむるであろう。常在霊鷲山の大恩教主願くば此誓願を納受してインドに仏法復興の大事を成就せしめ給へ。今生己に我が力も尽き命も亦尽きなんとして何等為す所は無い。あゝ愚蒙の弟子霊山を仰いで涙潜然として拭ふに暇がない。弟子一仏に子と生れ乍ら此国土に仏法滅亡の現状を見て悠々として其根源を究めなかつた、何たる不覚であろう。悔ふとも及ぶ所では無い。 三月六日、今朝は霊山参詣の前に水を飲んで道中の困難を克服せねばならない。水を飲んで出発した、昨日よりは足が軽い。
        鳥けもの入乱れたる足跡の
           虎より太き人の足跡

 就中鹿の蹄の跡と虎の足あとゝが最分明に見える昨夜鹿は虎に喰はれたであろうか霊鷲山の直下が最も虎の足跡が多い。人の足跡が甚分明についておる、誰の足跡であろうかと想ふておる中に霊山の坂道に登りかゝると上から半裸体の道士が二人降りて来た。我等は朝の寒さにおびえて肌着を重ねておるのに此人等なかゝゝ元気そうである。寒くはないかと聞けば寒くは無いと答へた。霊鷲山に登つた人達で最近此人達の足跡を見ておつたわけである、勿論跣足である。佐藤師は地下足袋を内地から用意して来らず、孟買でインドの革草履を買ふて履いた、緒が切れたので一朝跣足で登つたはよかつたけれど底豆を踏出していたみを感ずる。又革草履をはく緒が切れておるので縛りつける。地下足袋を用意して来れば足の問題は無かつたのに。
 帰つたのは九時半、昨日よりは早い往復五時間を要した。今日は御茶を頂くことにした。御茶の終る頃ナーランダ大学の梶山氏が見えた。今日は日曜で入浴に見えた。
 インドに於ける仏教全滅の原因を検討した。何等の結論も出ない。インドに於て回教徒が仏教並にヒンヅー教を攻撃して暴力的破壊をやつた事は真実であるが、其中ヒンヅー教はなほ存在し仏教ひとり全滅してしまつた。回教の仏教破壊の第一目標は仏陀の経典の全滅であり次には僧伽の全滅であつた。三智の大塔や、クシナガラの仏舎利塔が残存したのは其攻撃目標としては弟三次的のものであつたと云はれる、それにしてもヒンズー教の方は四吠陀からウバニシャツド、バカバートギータに至る迄完全に保存されておる。サンスクリットの仏典は一部たりと雖インドに存在して居ない。回教の暴力的破壊だけではかくも完全に全滅を行ふことは出来ない。彼の秦の始皇帝の焚書にしてもなほ壁の中に残存したと云ふ例もある。此インドに於て幾度も結集された仏典が一部も存在しない事は奇怪である。たとひ僧伽に護法の人が無く放逸懈怠の者が充満したと。依法不依人の教訓ある仏法の中に於てどうしても此仏典が広いインドに一部も保存されなくなる所以があろうか。最近に梵本の仏典を二三インドにネパールやチベットから集めてきたことがあるだけでである。仏教僧侶としては十名に足らない。日本からも慈雲尊者の梵漢対照の本が出版されてインドに渡つたと云ふ事である。インドの仏教滅亡に関する限り満足な解答を為し得る者は一人も無い。仏教全滅に関しては深い秘密があるに違ひない。此秘密を白日の下に曝さなければインドに仏教復興は不可能である。此事はインド人に托しても到底不可能である。日本の仏教徒乃至セイロン、パルマ、タイ諸国の仏弟子が負ふ可き務である。
 
 三月七日、今朝は軽快な歩調で霊鷲山に詣ることが出来た。飲食の功徳で此身がさゝへられておる。
       鷲の山我も登れば日も昇る
 今日は誰にも出会はない、只虎の往復した足跡だけ恐しく目につく。
         しき島の春風通ふ鷲の山
            虎伏す藪に花咲きにけり

 ビハール州の首相から手紙が届いた、来十四日迄は暇が無い其已後に会見し度いと云ふ事であつた。十日には王舎城をたつはずになつておるから今後は見参に入る機会は無い。
 満月か満月の前夜かで円かな月影が彼方霊山の方、毘畄羅山の山に出た、満天澄みきつて風もない、ひとりバルコニーに出て眺め入つておると此附近の学校の小供達二三十名を先生がつれてお参りした。
 
 三月八日、午前三時半から目覚めた、霊山の参詣飛ぶが如くに軽快に覚えた。明星天子の光薄らぎ光顕、山頂に曙の色がはなやかになるにつけ脚下がはつきりする。
白々とあけゆく鷲の山路に
先づ眼につくは虎の足跡
 大虎小虎の足跡がなまゝゝしく印されておる。チベットの信者六七名婦人づれが先行しておる、彼等はさすがに大雪山を踏破して来ただけに王舎城のジャングルや虎の足跡など無視しておるらしい。太鼓も撃たずに何の恐怖そうな顔もせないで歩行しておる。
 今日は久し振りに筆硯に対して内地への消息を書く。
 大方広仏華厳経第卅九離世間品に曰く
   仏子菩薩摩訶薩十種の発大事有り何等をか十と為す、乃至、一切如来滅土の後に悉舎利を取て無量の塔を起て種々の妙宝を以て荘厳と為し一切の花一切の夢一切の香一切の塗香一切の末香一切の衣一切の葢一切の幢一切の幡を以て之を供養し諸仏の正法を守護せん、是を菩薩摩訶薩の第三の発大事と為す 又曰く
  彼の諸の如来滅度の後に我当に悉舎利を取て塔廟を起て其塔の高広なること不可説の諸の世界と等しく
如来の像を造りて魏々高大なる事不可思議の(世界の如くし不可思議)却に於て衆の妙宝幢幡僧葢花香を以て之を供養し乃至、一念も休息の心を生ぜず衆生を教化し正法を受持し守護し賛嘆して亦一念も休息の心無かる可し是を菩薩摩訶薩の第八の発大事と為す
華厳経第四十六入法界品に曰く
 或は舎利を分つを現じ、或は塔を起てゝ種々に彼の諸の如来を荘厳す等々
同第六十入法界品に曰く
 或は法師と為りて仏法を讃嘆し譂思誦念し諸の福業を興し塔廟、諸の妙形像を造立して香花蔓以て恭敬し供養す等。
此外なほ以て仏舎利起塔供養の法門あり、華厳経は円満修多羅と称せらる純ら大乗菩薩の行法である。大乗菩薩行に仏滅後仏舎利を取つて起塔供養すべき旨を説く一香一花皆菩薩ならざるはなし。
大方広仏花厳経第十五如来光明覚品に曰く、
 能く正法の鼓を撃つて声十方の国に需ひ無上道を得せしめ玉ふ自覚の法は是の如し
十方国土の衆生をして無上道に入る事を得せしめんが為には、我能正法の鼓を撃つ可きである、もし我能く正法の鼓を撃たば十方国土は其音声に由て大震動を生し此法鼓の音声を聞いて歓喜する者は皆悉く無上道に入る事を得ると云ふは釈迦牟尼世尊道場菩提樹下に於て始成正覚の砌自覚し給ひし処の大法輪である。我等もし本門の戒壇に立て能く正法の鼓を撃たば、其声十方国土に震ひ一切衆生をして無上道に入る事を得せしむべし。我自覚の法も亦此の如し。

  
 三月八日は満月にてインドのお正月の祝ひが賑やかに温泉場も大勢の浴客である。ナーランダ研究所長が随身をつれて来訪された。花岡山の写真帳を贈呈した。「かゝる大事業は仏天の冥加無くしては出来ない」と感嘆された。
 午後甲市から達声師が西域記を携行した。王舎城の研究は西域記と仏国記だけが権威である文献となつておる。インドには何の文献も無い。甲市の日本綿花の社員石川信士が三四名の日本人を案内して参詣された。石橋信士よりの書信新聞を届けらる。妙義山演習地接取解除の報導があつた。閣議決定を覆した民衆最初の勝利の烽火である。
 
 三月九日、霊山参詣明星天子東天に輝き満月天子西山にうすづく、此間清涼の大気を振動せしめて三丁の法鼓霊山に登る。虎の足跡も今朝は少いやうである。西域記に載する霊鷲山の名花キヤニ花、黄金を溶かせし色、梅檀をさしのぐ香気今満山に咲き乱れた大輪牡丹の花の如くである、内地に送るよすがもかな。


王舎城

インド王舎城跡


インド霊鷲山

 インド霊鷲山  


マハトマ・ガンジー翁 非暴力抵抗


1)  剣や竹杖(ラッティ)や石が乱れ飛ぶところでは素手の人はどうしたらよいのだろうか? 致命的な一撃を人は悪意   を抱かずに受けることが出来るだろうか? 広い慈悲を持たぬ者にとっては、そうするのは不可能であることは明ら   かである。 

2)   敵を愛し得る人のみが、殴打をも花のごとくに受け取ることが出来る。神の嘉みしたもう千人の中の一人がそれをで   きる。それは崇高な魂の力ー犠牲的勇気ーを必要とするのである。 

3)   この勇者の非暴力を実践できる人なら、男であれえ女であれ外敵の侵入に対しても容易に立ち向かうことが出来る。 

4)   私は非武装のインド民族が、この広い分野において非暴力運動に結集することがインドを護るただ一つの武器である   と固く信ずる。たとえ暴力によって成功するのが確実であろうとも、非暴力を採るべきである。

5) 「お祈りをしなさい」。これがガンディー翁の政治演説であり、独立運動でした。翁はどこえ行っても、例え汽車の中   でも、日に3度のお祈りは欠かしたことがありませんでした。 

❶ 非暴力には2つの道が開かれている、第1の道は所有物を譲渡する、しかし圧迫者と協同しない。

❷ 第2の道は、非暴力の方法を訓練されてきた人々による非暴力抵抗であろう。彼等は圧迫者の大砲の前に糧秣(りょう  まつ)として非武装で自身を差し出すだろう。

❸ 非暴力抵抗は武力抵抗をするよりも人的損害が大きいことは恐らくないだろう。・・最後には非暴力抵抗に敗北という  ものはない。

❹ 歴史は私が挙げた種類の個人的非暴力の例で充満している。男や女の集まりが充分な訓練によって集団あるいは国家と  して非暴力に行動することが出来ないと、言ったり考えたりする合理的根拠は全然ない。

❺ 実際、人類の経験の総計は人間がどうやらこうやら生存し続けていることである。この事実から私は、人類を支配する  ものは愛の律法であると結論する。

❻ 暴力すなわち増悪が私たちを支配するのなら、私達はずっと前に絶滅してしまったであろう。

❼ そして、しかも人類の悲劇は、いわゆる文明人や文明国があたかも社会の基礎は暴力であるかのごとく振舞うことである。


マハトマ・ガンジー翁

マハトマ・ガンジー翁




マハトマ・ガンジー翁と祈り

私は若い頃インドにいっておりました。ガンディー翁のアシュラムに奇遇しておりましたが、大勢集まった中でガンディー翁はお話をされます。私は言葉がわかりませんでしたが、簡単なことはどうにか理解できました。
それはお祈りをしなさいということでした。「お祈りをしなさい。お祈りをすることが一番よいことです」これをガンディー翁は繰り返し話されます。それが翁の独立運動でした。私もガンディー翁がお話をされる前に太鼓を打ってお祈りをしました。それを見てガンディー翁も喜びます。集まった人達も何かわからないながら、日本人の打つ太鼓と大きな声でお祈りするのをみんな侮らずに聞いてくれました。
そうして誰もがお祈りを大切にしました。
「お祈りをしなさい」これがガンディー翁の政治演説であり、独立運動でした。みんなも翁の言葉に従ってお祈りをしました。翁は何処に行っても、例え汽車の中でも、日に三度のお祈りは欠かしたことがありません。
ガンディー翁だけでなく、みんなも一緒にお祈りをしている姿を見て、私はよくよくこれはありがたいことだと思いました。
二〇世紀における科学の発達はめざましいものがあります。この時代に革命を志して、しかも民衆を率いて行くのに「お祈りをしなさい。それが正しい運動だ」ということは大変理解しにくいことです。
誰も考えないことでしょう。しかし。さすがにガンディー翁はこの祈りを独立運動の根本として、あの偉大な成功を一滴の血も流さずにおさめました。
たとえ成功しないにしても、これはよいことです。しかし。この祈りの力によって、あの平和革命は達成されたのです。

 (昭和四〇年頃)


マハトマ・ガンジー翁

マハトマ・ガンジー翁




お師匠様とガンディー翁

お師匠様とガンディー翁






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Author:gyousyuusan
日本山妙法寺開山 無辺行菩薩 藤井日達大聖人様の御法話を中心として世界平和にかかわる事を発信して行きます。

大津行秀

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