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釈尊の大慈悲を背負う

 釈尊の大慈悲を背負う使命
四月二十八日、本日は日蓮大聖人様が三十二歳にしてこの清澄山において初めて「南無妙法蓮華経」を唱えだされた佳き日であります。この日、この山から現代の悲劇を演じた被爆地広島・長崎に向かって行進を始めます。
これは尊ぶべき大事業、これを軽んずれば人類滅亡をくい止める手段はなくなります。世界はいま、ここに目覚めました。日本山もこれにならって各地に行進が起こっております。
行進して何になるかと迷う者もおりますが、これが戦争をくい止めるのです。戦争をくい止めるのに私たち何人かが歩けばよいのか。そうです。私たちの目には見えない心に、一切衆生の諸々の苦しみを救おうという不思議な力が、これによって湧きいずるのです。これが宗教であります。
我も亦為(こ)れ世の父、諸の苦患を救う者なり御一代、頼まれもせんのにこんなことをされて通りました。この方が御釈迦様であります。
御釈迦様のお姿は見えません。なぜ見えないか。これは凡夫が顛倒しておるから見えない。
近し雖も而も見ざらしむ
御釈迦様の方から、欲の深い、我慢の強い者には見えなくしてあります。しかし見えないから力を得られないのではなく、この世界を救う力をいただいておる。この力、宗教というものはみなこれを救う力があるはずですけども、不完全な宗教では救えない。救えない証拠は、その宗教の歴史の中に描かれております。
救える宗教は二千五百年、三千年の歴史の中で、しかも物理的に万国どこへ行っても、その救いの力が現れてきます。この宗教とは仏教。この御釈迦様のお心を、こんどは、凡夫の者が継いで世間に伝えて歩く。これが行進であります。
私たちの行進はささやかなものですけれど、この私たちを行進させていただく御釈迦様の広大な神通力、大慈悲力というものは、目にこそ見えねども一切衆生を救い上げる請願があり、神通力があります。これを皆が信じて行進してください。歩くうちでの困難とは、宿の問題とか、誰が先頭に立つかというつまらないことで、これは世間の迷い。この姿を静かに見てください。
私たちはこの迷いを破っていかねばならぬ。
みなは、これから歩くのですが、時は後五百歳、末法の初め、況滅度後に当たっております。天台・伝教が法華経を弘められたのは、まだまだ平和の時代でありました。歌を詠んだり、詩を作ったりしていれば、平和な心が養われていった時代でありますが、末法にお生まれになられた日蓮大聖人は「天台・伝教は、先に生まれ給えり。今より後は又後悔(のちぐえ)なり」と仰せられました。
これは、いまの時こそ、御釈迦様の神通力を現し、大慈悲力を示すべき時である。八月)一五夜の月のようであります。この時こそ、月の光が本当に輝き現れる。
法華経はいつの時代にも衆生を利益します。御釈迦様はいつの時代にも衆生を救われます。けれども今日ほど、大切な時代はありません。その時に生まれ合わせた私たち、御釈迦様のお心を、伝えるべき役目を、自ら背負ってまいりました。これは使命であります。
この世に何のために生まれたかを、いままで知りませんでした。この困難を救おうと思うて立ち上がったその時が、あなた方の御釈迦様への神通力を身に負う時であります。
小さな問題を考えずに、自ら信じて大きな御釈迦様のお慈悲を世間にお伝えください。
  (一九八三年四月二十八日 清澄根本道場にて)


行進 1982 ニューヨーク

行進 1982年 国連核軍縮会議に向けて


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 慈悲

  慈悲
 宗教的救済の対機となる者は、既に信仰に入った者ではない。又彼の寺院の壇越でもない。
今此三界の一切衆生であらねばならぬ。少なくも人間の社会そのものでなければならぬ。
就中(なかんずく)日々刻々端的に逼る人類の苦悩深き者である。涅槃行に曰く「譬えば父母に七子有らんに、父母の心は平等ならざるに非ざれども、而も病める子に於いて心則ち偏(ひとえ)に重し」応(まさに)に知るべし宗教の対機は、一切衆生の中に於いて、特に病有る子に心則ち偏(ひとえ)に重かるべき筈である。
病有る子と云うは、其の宗教の信者でもなく、又壇越でもない。街頭に往来しておる者、衣食を求めて苦労する者、悪業を作す者、邪見を宣(の)ぶる者、重労働に服する者、穢悪の生活に沈む者、犯罪の者、軽賎されし者、飢人、病人、無信仰者、反宗教者、闘争者、嗔る者、怨言多き者、世を呪う者、正法を誹謗する者、賢聖を罵詈(めり)する者等、挙げ来たれば五濁悪世の衆生の総てである。是等病める子の為に、慈悲の心偏(ひとえ)に重く其の病を治さねばならぬ。
  (昭和二十一年)


富山 立山 紅葉

富山 立山 紅葉 十一月十日

大慈悲方便

   【一閻浮提】
 
日本山の教団は、僧尼の破戒、無戒の科(とが)に由って破壊することは無い。天魔外道の怨嫉に由って破壊することも無い。もしこれを破壊する者がありとすれば、空閑に住して経を読み、禁戒を持って、自ら勝想を生じ、他を下して視て、他の過失を説き、僧と和合せず、歓喜せず、同一水乳のごとくならず、安穏に山中に止住すること能わざる者の出現することである。
栂(とが)の尾の明恵上人、ある時、門下の者不善の僧を衆中より擯出せんと申し出けるを咎められた詞に曰く、何となれども清浄衆の中に居って不善を行う者は、諸天照覧し給えば、己と顕れ、己と退く習いなり、然るを汝、彼の不善を我に談りて彼を擯出せんとするは僧として無慈悲の至りなり。
仏は「実に有ることを自ら見るとも、僧の欠を顕すべからず」と誡しめ給えり、是,大慈悲方便なり、浅智の能く知る所にあらず、又、「佛弟子の過を説くは、百億の仏身より血を出すにも過ぎたり」と説かれたり。
又は、一には和合僧の中を云い違うるは五逆罪の其の一なり、四重を犯すに勝れり、汝。既に此の二の罪を犯せり。五逆罪の人の寸時も同住せん事恐れあり」と仰せられた。かくて不善の僧は門下にとどめられ、僧の不善を語りし清浄の僧は五逆罪の人として門下を擯出せられた。

道場に咲いた水連

道場に咲いた水連 5月

          

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Author:gyousyuusan
日本山妙法寺開山 無辺行菩薩 藤井日達大聖人様の御法話を中心として世界平和にかかわる事を発信して行きます。

大津行秀

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